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奈良市・興福寺

奈良県奈良市・興福寺(こうふくじ)

法相宗の大本山の興福寺です、前身の山階寺(やましなでら)は藤原鎌足が重い病気を患った時に夫人の鏡女王が回復を祈願して、釈迦三尊や四天王などを安置するために建造されたと伝わり、興福寺の別名ともされています。この後壬申の乱(じんしんのらん)「672」の後に山階寺が移され地名の厩坂寺(うまやさかでら)と名乗った。さらに和銅3年(710)平城遷都の時、藤原不比等(ふじわらふひと)によって移され「興福寺」と名乗りました。

・壬申の乱(じんしんのらん) 天武天皇(672)「皇族や皇親が主導する政治体制の確立に務め、律令の制定に着手し国史の編纂を命じるなど、国の礎を築く政治を行いました」に天智天皇「飛鳥時代(668〜671)の天皇。蘇我氏が専横を極めたために、中臣鎌足(なかとみのかまたり)らと蘇我氏を倒す計画を立て、645年蘇我入鹿(そがのいるか)を殺し、蘇我蝦夷(そがのえみし)を自殺に追い込んだ」の後継者をめぐって弟・大海人皇子(おおあまのみこ・天武天皇の即位前の名)と息子・大友皇子(おおとものおうじ・天知天皇の子供)により、今の奈良県、三重県、岐阜県、滋賀県などの広域で展開された古代史上最大の戦乱

・藤原鎌足(ふじわらかまたり)7世紀の政治家。藤原氏の祖、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)・天智天皇(てんじてんのう)の側近として、蘇我蝦夷(そがのえみし)・蘇我入鹿(そがのいるか)を打倒。大化改新を主導し、死ぬまで政界の重鎮として律令国家体制の基礎を築いた

・藤原不比等(ふじわらふひと)奈良時代の政治家。藤原鎌足を父とする。鎌足の死後、家を継いだ不比等は大納言・右大臣を歴任し藤原氏の地位を安定させた。特に律令体制の確立に力を入れて、大宝律令制定に参画した

興福寺となってからは天皇・皇后や藤原氏の恩恵により奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺として寺勢はますます強くなり、平安時代には春日大社(全国に約3000社ある春日神社の総本社)の実権を握り鎌倉時代・室町時代には大和国(近畿地方の中央や南寄り、現在の奈良県全体を含む地域)に守護(鎌倉時代から室町時代にかけて、幕府から地方の統治のために任命された官僚のこと)を置かず、興福寺がその任を担うほどでした。その後明治政府による仏分離令社寺領上知令「江戸時代に認められていた寺院や神社の領地が没収される事」に伴う廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)「仏教を廃する事」により興福寺は苦境に立たされるが寺僧や有縁者の力により歴史を歩んできた。

・基本情報

・所在地 奈良県奈良市登大路町48番地

・アクセス ・近鉄奈良駅徒歩5分 ・JR奈良駅徒歩15分  ・駐車場 46台 ・バス 16台(利用時間 9:00〜17:00)  駐車料金 バス3時間 3000円 乗用車1回1000円  ・TEL 0742-22-4096

                   

*拝観時間 ・興福寺国宝館 9:00〜17:00(受付終了16:45) 大人・拝観料700円 高中学生600円 小学生300円

       ・東金堂 9:00〜17:00(受付終了16:45) 大人・拝観料300円 高中学生200円  小学生100円

        ・中金堂 9:00〜17:00(受付終了16:45) 大人・拝観料500円 高中学生300円  小学生100円

・国宝館・東金堂連帯共通券 ・大人900円 ・高中学生700円 ・小学生350円

*TEL    ・興福寺国宝館  0742ー22ー5370

          ・東金堂    0742ー22ー7781

                            ・ 中金堂  0742ー22ー7781 

*詳しくは、電話にてご確認下さい。

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