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京都府城陽市・久世神社

久世神社(くぜじんじゃ)は、旧久世村の産土神『うぶすながみ』で江戸時代には、華霊天神社『かりょうてんじんしゃ』でありましたが、現在の名前になったのは、明治初期です。伝えによると祭神の日本武尊(やまとたけるのみこと)は、死後西に白鷺(しらさぎ)となって飛び去り、その鷺が留まった地を鷺坂山と言いこの地に祭ったのが始まりとされます。

久世村(くせむら)現在地の名前は、城陽市大字久世です。城陽市の北部に位置して北は、平川・南及び東は、寺田、西は、木津川に接する。「和名称」(わみょうしょう)記載の久世郡久世郷の地域にあたり、久世郡の郡衙(ぐんが)は、南隣の現大字寺田正道村付近にあったとされる。村域の東丘陵上に点在する西山古墳群は、前方後円墳一基・方墳一基・円墳四基からなる前期古墳群で、北側に連なる四世紀に築造されたと言われる久津川車塚より古いと言われています。また近年では、芝ヶ原で古墳時代の集落後が発掘調査され、竪穴住居跡群が発掘されています。また、芝ヶ原にある廃寺跡は、久世廃寺と称され、現在の久世神社の境内にあり二ヶ所の土壇により、東に塔、西に金堂を配する法起寺式伽藍配置と推測されています。

*久世の蟹の恩返し

久世神社のカニ池にまつわる話しです。昔、久世村には、心の優しい娘さんがおり、その娘さんがある時、村の男の子が蟹を捕まえて遊んでいて、夜にそれを食べていると聞いて、あわれにと思った娘さんがその蟹を買い取って助けてあげました。それからいく日が過ぎたある日、娘さんのお父さんが田んぼにいくと、蛇が蛙を飲み込もうとしていたのでお父さんが「まぁまぁ待て、その蛙を助けてやったら、お前の好きなものをやろう」と言うと、蛇が蛙を放してするするといなくなりました。その夜に姿を変えた大蛇が来て「娘をお嫁にもらいに来た」といいました。びっくりしたお父さんは、「ちょっと待ってくれ。三日間待ってくれ」と頼みました。そに間に厚い板で蔵をつくり、娘さんを蔵にかくまいました。ところが娘さんを蔵の中に入れてあるために大蛇が怒って本性をあらわして、蔵をぐるぐる取り巻いて、大きな音をたてて蔵をつぶそうと尻尾で蔵を叩きつづけました。翌日、音がやんだのでおそるおそる扉を開けてみたら、そこには、たくさんの蟹と大蛇が死んでいたそうです。そこでかわいそうにと塚をたてて手厚く葬ったそうです。

*久世神社本殿

・重要文化財の本殿です。

*産土神(うぶすながみ)生まれた土地を守護している神様のことです。その産土様を祀っている神社が産土神社ですその人が生まれる前から守っている特別な神様なので定期的に参拝する方もおられます

*華霊天神社(かりょうてんじんじゃ)久世神社は旧久世村の産土神(うぶすながみ)で江戸時代は華霊天神社でありましたが明治初期から「久世神社」と改められました。

京都から五里奈良から五里位置し古い歴史や史跡、社寺が特色の城陽市、市域は、東西9キロ南北5、4キロで面積約、32、71キロ平方メートル人口74531人(2020年3月1日)豊かな水と温暖な気候に恵まれた都市のほぼ中心の北側にあるのが久世神社です。

この久世神社について少しお話しします。

 元々は、久世廃寺跡で(城陽市久世芝ケ原にある寺院跡、法起寺式・伽藍(がらん)配置の塔跡や金堂跡(仏教寺院で本尊像を安置するために作られた堂)講堂跡(仏教寺院において経法を講じ、法会・儀式を行う主要な堂の一つ)が土壇(どだん)「土で築した壇」としてよく保存されている古代寺院跡です。 また境内背後地から平安時代の多量の瓦や鉄釘が発掘され奈良時代の末期の金銅製誕生釈迦仏立像などの重要な遺物も多数発掘されています。

*法起寺(ほっきじ)飛鳥時代(593〜710)に日本に仏教を広めた政治家の聖徳太子(574〜622)によって設立された偉大な仏教寺院の一です。息子の山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ・聖徳太子の王子)は、父の死後その遺言によって岡本というところにあった宮殿を寺院として、708年に完成した。・山背大兄皇子 大和、斑鳩(いかるが)飛鳥(あすか)時代の皇族です。聖徳太子の子供で母は、蘇我馬子(そがうまこ)の娘・刀自古郎女(とじこのいらつめ・聖徳太子の妃)。推古天皇没後、皇位承継問題が起こり、蘇我倉麻呂(そがのくらまろ・飛鳥時代の豪族)境部磨理勢(さかいべのまりせ・飛鳥時代の豪族)らに擁立されて、蘇我蝦夷(そがのえみし)の推す田村皇子(舒明天皇・じょめいてんのう)「日本の第34代天皇」と争ったが敗れた

*伽藍(がらん)僧侶が集まる寺院敷地内にある堂宇(どうう)「建物」群のこと

おもな建物跡がよく保存され、古代久世郡衙(ぐんが)と推定される遺跡もあり南山城地方の古代寺院を考えるうえで重要な遺跡です。

*郡衙(ぐんが)古代日本の律令制度下で、地方支配の拠点として置かれた郡の役所、地方には640年代には評(こおり)が置かれていたが大宝1年(701)に定められた。大宝令によって郡に変更された

芝ケ原遺跡の発掘調査により久世廃寺跡遺跡は、旧石器時代(約3万8千年前から1万6千年前の約2万2千年間)から奈良時代(奈良の平城京に都があった時代・和銅3年(710)から延暦3年(784)までの74年間)の複合遺跡とみられ久世廃寺健立以前には、一帯には大規模な集落が存在し久世廃寺を支えていたとみられいます。       

奈良時代前期に創建され八世紀前半(八世紀・701年〜800年の100年間)に久世廃寺が廃絶した後に東側に久世神社(華霊天神社)を健立して今の「久世神社」となっています。(2007年平成19年に国の史跡に指定されています)

健立時期は、あきらかでなく日本武尊(やまとたけるのみこと)を祭神としています。祭神については記紀などに伝わる古代日本の皇族です。(記紀とは、古事記や日本書記の総称です)     

*大和武尊(やまとたけるのみこと)

日本書記では、主に大和武尊(やまとたけるのみこと) 古事記では、倭建命(やまとたけるのみこと)と表記される。第12代・「景行天皇」(けいこうてんのう)の皇子で第14代・「仲哀天皇」(ちゅうあいてんのう)の父にあたる。 熊襲征伐(くまそせいばつ)「南九州を拠点にしてヤマト王権に抵抗していた熊襲一族を征伐しょうとしたこと」、東国討伐(あずまのくにせいばつ)「東方の敵の征伐」を行ったとされる伝説的英雄です。しかし、伝説上の人物であり実在していないそうです。

*日本書記(にほんしょき)奈良時代養老4年(720)に完成した日本最古の正史(国の正式な歴史を記した書物)です。天地開闢(てんちかいびゃく)といわれる世界のはじまり、神々の手によって日本の国が築かれいった神代から第41代の天皇に数えられる持統天皇の時代までの歴史が記録されています。全30巻からなり、系図1巻が添えられています。

*古事記(こじき)和銅5年(712)に完成した日本の歴史をまとめた書物です、現存する歴史書の中では最も古い物と言われいます。上中下の3巻で構成されていて、日本の国や神々の誕生から33代推古天皇までの歴史を記しています。

・日本書紀と古事記の違いは、『日本書紀』の目的は、日本という国の成立を記すことであり、『古事記』の目的は、天皇家の歴史を記す事だと言われています。

 本殿は、室町時代に建築されており国の重要文化財です。正面の柱間が一間の「一間社流造」(いっけんしゃながれつくり)屋根は、檜皮葺(ひわだぶき)正面格子戸の上に唐草模様の透彫があしらわれています。トップに画像があります。

・一間社流造(いっけんしゃながれつくり)流造とは、側面にした切妻屋根「きりづまやね」(屋根形式の一つ、本を半分開いて伏せたような形の屋根です)を持ち、正面側が庇(ひさし)のように前へ張り出した様式で、正面の柱が二本で間口が一つなら「一間社」・柱が三本で間口が二間なら「二間社」と呼びます

・檜皮葺(ひわだぶき)屋根葺き手法の一つで檜(ひのき)の樹皮を用いて施工される日本古来から伝わる伝統的手法です。有名神社など多くの文化財の屋根で見る事ができます

久世神社内には、万葉歌碑がありこの鷺坂の地を飛鳥時代(推古天皇が即位した593年から、平城京へ遷都した710年までの時代)の歌人 柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)(660〜720頃)が訪問した時に読んだ歌碑があります。

山城の 久世の鷺坂 神世より 春は張りつつ

秋は散りけり と刻まれている。

*歌の解釈

山背の久世の鷺坂は、神代の昔から春は、草木が芽を吹き

秋は、黄葉(もみじ)して散る という意味です。

鷺坂を往来しているうちに「柿本人麻呂」らがその美しい景色に感動して四季の素晴しさを詠んだ歌です。

*柿本人麻呂の歌碑

・旧国道から久世神社に入る時にある石碑です。        ・柿本人麻呂の歌碑です。

*柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)

斉明天皇6年(660年)頃〜神亀元年(724年3月18日)飛鳥時代の歌人です、後世に「山部赤人」(やまべのあかひと)とともに「万葉集」では第一の歌人として活躍しました。後世には、歌聖と呼ばれ称えられている人物です。三十六歌仙の一人で平安時代からは『人丸』と表記されることが多い歌人です。

*万葉集(まんようしゅう)7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂された現存するわが国最古の歌集です

*山部赤人(やまべのあかひと)奈良時代初期の宮廷歌人で、「万葉集」第3期の代表的歌人です

*三十六歌仙(さんじゅうろくかせん)優れた歌聖として崇拝された36人の歌人です

久世神社の参道は、旧街道から入ると久世宮踏切(JR奈良線)があり春になると草木が多く桜の花がとても綺麗です。

*久世神社参道

・久世の森を横に参道を進みます。             ・参道には桜の木があります。

                                          

特に参道に沿っては、とても美しく桜のトンネルをくぐると、久世廃寺跡が広がる久世の森が姿を表し静かに小鳥のさえずる声が聞こえてきます。遠い昔、万葉の時代より人々の営みがあったと思うと当時の人たちの笑い声が聞こえてくるようです。

*久世の森

・JR奈良線の踏切を越え久世の森につながります。     ・久世の森は、今も自然豊かです。

基本情報

*ご利益

 交通・旅行・地域安全・病気平癒、金運財運向上のほかに学業成就や縁結びなど、どんな願いでも約束を間違えずご利益が得られると言われています

*久世神社開門時間 自由・無料 パーキングはありません

*住所  城陽市久世芝ケ原142番142番1

*御神祭

 本社 ・日本武尊(やまとたけるのみこと)第12代景行天皇の皇子。この時代の戦果は著しく、ピンチが迫っても数々の機転で乗り越えてきたため、難局打開の神として英雄視されることが多い。また、敵の火計を内側からの火を起こすことで切り抜けたことで、火防の神の性格を持つ。一説によると酉の市(とりのいち)はヤマトタケルの命日とされる。

・酉の市(とりのいち):鷲神社(おおとりじんじゃ)、大鳥神社、酉の寺など、鷲や鳥にゆかりがある寺社で行われる行事です。毎年11月の酉の日にここで熊手や招き猫などの縁起物を購入し、一年の無事の報告と翌年の福を願うことになります。

 末社倉稲魂神(うかのみたまのかみ):「ウカ」とは穀物を意味し、その魂を表します。そのため五穀豊穣を司り、途中からお稲荷さんを信奉した商人が成功をおさめていったことから、商売繁盛の神様としても広く崇められています。

    ・級長津彦命(しいなつひこのみこと)「風の神」であるシナツヒコは、古事記では志那都比古(しなつひこ)・日本書紀では、級長津彦(しなつひこ)と表します。シナは「息が長い」という意味で、イザナミが朝霧を吹き払った息から生まれました。伊勢神宮外宮の風宮(かぜのみや)にて、女神の級長戸辺(シナトベ)と共に祭られ、男女でセットのようです。

    ・級長津姫命 (しいなつひめのみこと) 

*連絡先 [0774ー52ー3960](久世神社社務所は、無人ですのでご用際は、電話連絡して下さい)

*アクセス ・JR奈良線(城陽駅)下車 北へ徒歩約5分  ・近鉄京都線(寺田)下車 徒歩約25分(寺田駅東口)

*年間行事

 ・新年祭(1月1日)・祈年祭(春祭り)(4月上句日曜日)・夏祭り(8月中旬日曜日)

 ・例大祭・神幸祭(10月6〜7日大篝火神事は、日本武尊が大和政権に敵対した者を討伐したという伝承に基づ  き、御旅所で大篝火を焚きます。通常は、公園として使われています。

*久世神社御旅所の石碑

        

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