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京都府城陽市・旦椋神社

*旦椋神社(あさくらじんじゃ)旧観音堂の産土神(うぶすなかみ)です。

城陽市観音堂とは、城陽市の南部に位置しています。丁度、京都と奈良の中間地点にあたり古くから農業が盛んな地域で豊かな地下水と肥沃な土壌に恵まれた場所です。「花の小径」と呼ばれる花菖蒲やかきつばたなどを湧水を利用して栽培が盛んに行われて、散策路があり全長約500mにわたり花々が咲き誇っています。当サイトにもメディア・スポットとして紹介しています。毎年、季節になると花が咲き「花しょうぶまつり」が開催されています。その他にも観音堂地区は、「観音堂農業センター」があり、季節になるといちじく狩りも楽しめ、秋には、柿狩りも行われます。西福寺の観音堂は、江戸時代から山城観音霊所の礼所とされ、「中山城十八番」の扁額(へんがく)が掲げられています。「南山城三十三所」の霊場として貞享年間(1684ー1688)頃に創建されたものの、後に廃れ(すたれ)天保6年(1835)に復興されました。さらに、青谷の東方椎尾(しいお)に観音様を祀った観音寺があったされ、兵火で焼失したため本尊の千手観音が里にお堂を建て安置されたことによって、観音堂の地名の由来と伝えられています。

旦椋は、穀物を収納する校倉(あぜくら)の古語です。本殿は、二間社流造、こけら葺。規模つくりは、[荒見神社]本殿に共通しており、桃山時代「永禄11年(1568)から慶長5年(1600)」の華やかさがあります。本殿は、現在は、覆屋(おおいや)で守られています。「覆屋」覆堂(ふくどう・おおいどう・さやどう)は、貴重な文化財や史跡等を風雨から保護するためにそれらを覆うように建設された簡易な建設物です。

桃山時代の建築様式を伝える本殿や緑豊かな境内地をもつ当社(旦椋神社)は、昭和58年4月15日付で京都府より、登録文化財に登録され本殿を含む境内地は、環境保全地区に登録されており、将来にわたる保全と保護の措置が講じられました。

当社の例祭は、10月4日です。観音堂(観音の象を安置した堂)の道沿いには、高張りちょうちんがたちならび、神輿の巡行は無く、静かな祭です。また、旦椋神社の御祭神は、高倉宮以仁王(たかくらもちひとおう)で、以仁王と言えば平治の乱で知られる人です。

*平安時代末期の皇族、後白河天皇の第三皇子で以仁王の令旨(りょうじ)を出して源氏に平氏打倒を促した事で有名です。邸宅が三条高倉にあったので三条宮、高倉宮と呼ばれ、高倉天皇とは別人です。

・高倉宮=後白河天皇の第3皇子・以仁王:後白河天皇の第2皇子。1180年、源頼政のすすめにしたがって平氏追討の令旨(りょうじ)「命令文書」を諸国の源氏に下し、挙兵をうながしたが事前に発覚した。

・高倉天皇=後白河天皇の第7皇子で平清盛の甥:日本の第80代天皇・在位1168〜1180・後白河天皇の第7皇子。名は憲仁のひと。後白河天皇の院政下に即位し、平清盛の娘・徳子(建礼門院)を皇后としたが、法皇と清盛の不和を衰えて安徳天皇に譲位

後白河天皇 第77代「後白河天皇」(ごしらかわてんのう)は、わずか3年という短い在位のあと、30余年にわたる長い院政(天皇が譲位後に政治を行うこと)を敷いた天皇です。その治世は、藤原氏との争い、平氏と源氏の戦乱という混沌の時代でした。後白河天皇自身も幽閉されるなど、戦いにまみれた波乱の生涯を送っています

平治の乱 1159年(平治元年)京都を舞台に源氏と平氏が朝廷の皇位継承を争った内乱です。この戦いによって、源氏方は、敗北。戦いに勝った平氏が政治の実権を握り平氏全盛期を迎えることになりました

また平治の乱で知られる以仁王は、誤りです。平治の乱は、以仁王の異母兄・二条天皇以仁王の父・後白河法皇の対立で、以仁王は、当時9歳になります。平家の世の中になり皇位継承の望みが絶たれた以仁王は、源頼政(みなもとのよりまさ)に勧められ挙兵したが敗北。治承4年(1180・5月26日)源頼政も平等院に籠って抵抗するが多勢に無勢で、子供の仲綱や宗綱や兼綱が次々に討死・自害し頼政も辞世の句を残して郎党の渡辺唱(となう)の介錯で平等院で自害しました。同日に以仁王は、興福寺に逃れる途中この旦椋神社に立ち寄り6〜7km南下した所、南山城の加幡河原で平氏家人の藤原景高・伊藤忠綱ら率いる追討軍によって討ち取られました。

*二条天皇(にじょうてんのう)日本の78代天皇、後白河天皇の第一皇子です。二条天皇は、悪僧・神人の統制令や荘園整理など信西の政策を踏襲して、積極的な展開をしました。政治から排除された後白河上皇は信仰の世界にのめりこみ、蓮華王院を造営して供養の日に二条天皇の行幸と寺司への功労の賞を望んだが、天皇が拒んだことから恨みを抱いたという。

*源頼政(みなもとのよりまさ)平安時代末期の武将・公卿(くぎょう)・歌人。兵庫頭・源仲政の長男 1180年以仁王を奉じて挙兵するが、平氏と宇治にて戦うが敗死した。保元(ほうげん)の乱には、後白河天皇方に参じ、平治の乱では平清盛にくみし、従三位(じゅさんみ)に位を授けられて源三位(げんざんみ)と呼ばれた。源頼朝との関係は、200年くらい前の先祖が兄弟だったという間柄です。つまり姓が同じだけの他人です。

南都を目指した理由は、事前に興福寺に書状を送り興福寺が協力することになっていたためです。以仁王の遺骸を都に送る途中、冑(かぶと)が落ちたのを村人がひそかにしまっておいたところ奇怪なことがしばしば起こるので、神を祀り神社として冑神社と称した。これが明治になって「旦椋神社」と社名を変更したとの事です。

*興福寺(こうふくじ)南都7大寺(奈良を中心に地域にある七つの大寺院。一般的に東大寺・西大寺・法隆寺・薬師寺・大安寺・元興寺・興福寺をいう)の中で最も密接に奈良の街とつながりを持ち発展したお寺です。最盛期には藤原一族の氏寺として寺勢を拡大しました

宇治、近鉄大久保駅の南西、府道15号線の南にも旦椋神社があり、別の神社です間違えないでください。

基本情報

・ご祭神 高倉宮以仁王(たかくらみやもちひとおう)

・開門時間 参拝自由

・住所 京都府城陽市観音堂田畑1ー12

・旧国郡 山城国久世郡観音堂村

・文化財 本殿京都府登録文化財

・アクセス ・JR奈良線JR長池駅から西へ徒歩約14分

         ・京阪京都バス54A城陽さんさんバス二本松バス亭徒歩6分

         ・京阪京都バス54A城陽さんさんバスたつみ畑バス亭徒歩8分

         ・京阪京都バス54A長池バス亭徒歩10分

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