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京都府城陽市・賀茂神社

*賀茂神社(かもじんじゃ)創建年代等の詳細は不詳、旧奈島村の氏神です。御祭神は、大社の上賀茂神社の祭神を遷し祀ったと伝わることから、賀茂別雷大神と思われます。城陽市大字奈島は、東側を市辺(いちのべ)村と久世郡中村に接し、北側を長谷川、南側を青谷川が西流していて木津川に流れ込んでいます。西側は、木津川を隔てて草内村(現在の京田辺市)に面しています。古くは、梨間・名島・菜島とも記され、木津川河畔に芦(よし)や荻(おぎ)が生い茂るところから、名付けられたと言われます。また、村の西方に多くの梨が植えられていたためとも言われています。城陽町史によると永正二年(1505)2月、春日祭に参向した三条西実隆(さんじょうにしさねたか)の仮名記に「なしまのわたりにや、しろくさける花のみえたる、梨の花にやとおほえてたつねけれは、こふしの花となん申をききてをかしくおほえし」と記されいることから、奈島と梨の連想は、かなり一般的な意味合いを持っていたのではないでしょうか?鎌倉時代初頭には、この付近は、賀茂別雷神社(かもわけいかずちじんじゃ)「現在の上賀茂神社」の社領となっていたらしく、「賀茂注進雑記」は、文治二年(1186)9月5日付の源頼朝下文を載せ、「山城国森本郷・水主郷・富野郷・奈島郷・草内郷・奈木郷」の六郷が「右賀茂別雷社領地」として武士の狼藉(ろうぜき)を停止している。

・賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)は、京都市北区の上賀茂神社(かみがもじんじや)と同じです。

上賀茂神社の由緒は、欽明天皇(きんめいてんのう)日本の第29代天皇・の時代(539〜571)。国中が天災に見舞われ、庶民が非常に貧困していたので、欽明天皇がト部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)に天災の原因を占わせたところ、賀茂大神の祟りであることがわかり、そこで、4月吉日を選び馬に鈴をかけ、人は猪頭をつけて盛大に祭りを行いました。ご祭神が神山に降臨される際に「馬に鈴を掛けて走らせなさい」というお告げに従って神迎の祭を行ったと伝わることから、「乗馬発祥の地」とされています。毎年5月5日に開催される「賀茂競馬」(かもくらべうま)など馬にまつわる神事も多く執り行われて、馬ととても縁が深い神社です。

*競馬会神事(くらべうまえしんじ):京都市北区の賀茂別雷神社(上賀茂神社)で5月5日に催される神事。通称は賀茂競馬(かもくらべうま)。1983年(昭和58年)に登録無形民俗文化財となった。競馬発祥の地で行われる宮中由来の駈け競べです。寛治7年(1093)天下泰平と五穀豊穣を願って宮中で行われていた競馬会を神社に移した事に始まる神事です、競馬会の儀が13:00から行われ、14:00頃から芝生で競馳(きようち)が始まります。

京都の神社でも最古の歴史を有する大社で有名な一社であり、かつてこの地を支配していた古代氏族である賀茂氏の氏神を祀る神社として、賀茂御祖神社(下鴨神社)と共に賀茂神社(賀茂社)と総称されています。賀茂社は、奈良時代「和銅3年(710)から延暦3年(784)」には、既に強大な勢力を誇り、平安遷都後は、皇城の鎮護社として京都という都市の形成に深く関わってきました。

賀茂氏は、古代の氏族で鴨や加茂とも呼ばれいました。各地に分布していましたが、特に山城国葛野(京都府)と大和国葛城(奈良県)を本拠地にする氏が有名でした。

城陽市内の加茂社本殿は流造が多い中、こちらは、春日造の本殿です荘園領地との関連で城陽を境に北は、「流造」(ながれづくり)南は、「春日造」が多くなっています。賀茂神社の本殿は、一間社隅木入春造・檜皮葺で江戸時代の建物です。

*流造(ながれづくり)日本の神社建築様式の一つ、平安初期に成立したとされる。「流造」とは、「流造り」と書くことも多い、切り妻屋根の全面が長い特徴を持っており、沿って前に曲線形に伸びていくが、これが向拝を形成している。神社の本殿形式として、他の形式よりも一般的にみられるものとなった。上下賀茂神社本殿がその代表例となっています。奈良末期から平安初期に始まり、神社本殿として最も広く行われています。

*春日造(かすがずくり)神社本殿形式の一つ、奈良の春日大社本殿の桁行「けたゆき」一間、奥行一間、妻入りで、前に向拝を付けたものを基本形式とします。春日大社・末社の夫婦大國社は、その名前のごとく「夫婦円満」と「縁結び」の神徳があります。全国で唯一、ご夫婦の大國様をお祭りしています。境内には、朱塗りのあでやかな社殿が立ち、古来より藤の名所しても有名です。また、境内には春日大社国宝殿があり、国宝354点・重要文化財2505点を収蔵、公開しています。

京都市内では、上下の賀茂社を代表とする、「流造」が多く春日大社を代表する「春日造」はめずらしい、両建築様式の分布は、両社(上下賀茂神社・春日大社)の荘園領地との関連で理解されているそうです。

旧五月の上賀茂神社の賀茂競馬には奈島村から参加させるなど、上賀茂神社と深いつながりがあるようです。

・荘園(しょうえん)とは、社寺や貴族が財力によって開墾(かいこん)「土地を切り開き田畑を作ること」自分の領地として大規模な農園を作ることを言います

例祭は、十月十六日で市内でも遅く。また当社では、現在でも風雨をしずめ豊作を願う「八朔祭」(はっさくさい)を九月一日に行っています。祭礼のあと境内で盆踊りが行われ、昔は、近郷・近在より多数の人が集まりにぎわったといいます。

・八朔祭(はっさくさい)毎年9月の第一日曜日に行こなわれる京都で最後の夏祭りです。このころ京都では、農作物が台風や病害虫の被害を受けることが多いため、風雨安穏(ふううあんのん)・五穀豊穣・家内安全の祈願が行われた

青谷地区には、他に・木津川の渡し場の守護神と伝わる[松本神社]・おかげ踊りの絵馬で知られた[中天満宮]・江戸期の社殿と手入れの行きとどいた境内地をもつ市辺天満宮社]などがある。

基本情報

*祭神・賀茂別雷大神:記紀神話には、登場しない地方神の一つで、山城の賀茂族の系譜(けいふ)にあたる氏族神。雷を司る神とされるが、「ワケ」が若いという意味があることから、若いエネルギーを蓄えた雷の神と伝えられる。この「ワケ」を雷を裂くとする解釈もあり、「雷を別けるほどの強い力を持つ神」とされ結果古来より厄除け・災難除け・必勝の神として信仰されており、雷は五穀豊穣をもたらすとして農業神とも考えられた。

・開門時間 参拝自由

・住所 京都府城陽市奈島久保野110

・アクセス JR奈良線山城青谷駅さら徒歩約5分

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