京都府京田辺市 酬恩庵 一休寺(しゅうおんあん いっきゅうじ)
とんちの一休さんで有名なお寺、酬恩庵(しゅうおんあん)「別名一休寺」は一休和尚が晩年63歳の時に隠居した臨済宗大徳寺派の禅寺です。鎌倉時代の妙勝寺が「元弘の戦火」により荒廃していた寺を康正2年(1456)に一休禅師が再興し、宗祖の恩に報いるために酬恩庵と名付けられました。一休和尚は「応仁の乱」の戦火を逃れる為に酬恩庵で晩年を過ごし享年88歳で亡くなったとされます。虎丘庵(こきゅうあん)は優雅な檜葺きで一休和尚が住んだとされます。本堂は室町時代6代将軍・足利義教により建立され室町時代の代表的な禅宗寺建物として重要文化財に指定されています。名勝地に指定されている方丈庭園(ほうじょうていえん)「江戸時代初期の代表的な枯山水庭園」は名庭で苔の緑と自然石の取り合わせがとても美しい庭園です。
*元弘の変(げんこうのへん)元弘元年(1331)後醍醐天皇が企てた鎌倉幕府討伐の計画
*応仁の乱(おうにんのらん)応仁元年(1467)から文明9年(1477)までの11年間、管領・細川勝元(ほそかわかつもと)の東軍と山名宗全(やまなそうぜん)の西軍が戦った内乱
*虎丘庵(こきゅうあん)京都市内東山にあったものをこちらに移築したもので一休禅師が晩年生活した庵です
*一休宗純(いっきゅうそうじゅん)応永元年(1394)に京都嵯峨で生まれ、父は100代天皇「後小松天皇」(ごこまつてんのう)、母は藤原氏一族出身の女官です、幼少期は「千菊丸」(せんぎくまる)と名付けられました。千菊丸は政争に巻き込まれないように6歳の時、安国寺に預けられ「周健」(しゅうけん)と言う名前をもらい、応永13年(1406)に「建仁寺」(けんにんじ)へ入門し才能を開花させました。17歳になった周健は「西金寺」(さいこんじ)の高僧「謙翁宗為」(けんおうそうい)に弟子入りし「宗純」(そうじゅん)の名をいただきます。その後「宗純」は生涯の師となる「大徳寺」高僧「華叟宗曇」(かそうそうどん)に入門し25歳で「一休」の号を華叟宗曇より授かり「一休宗純」を名乗ります。
華叟宗曇が亡くなった後、一休宗純は34歳、時に各地を巡り身分の分け隔てなく禅の教えを説いて回ります、応仁元年(1467)「応仁の乱」が勃発し大徳寺・如意庵も焼失してしまって、戦乱を避けて住まいを転々としたのち、81歳の時荒廃した大徳寺復興のために住職に就任しましたが、大徳寺に住む事なく郊外の「酬恩庵」を終わりの地としました。文明9年(1477)に応仁の乱が終結した後、大徳寺を再建して、一休宗純は落慶法要(らっけいほうよう)「寺社の落成を祝う儀式」済ませて文明11年(1479)弟子達に囲まれて坐禅を組んだまま息を引き取ります。享年88歳 最後の言葉が「まだ死にたくない」でした。
*基本情報
・所在地 京都府京田辺市薪里ノ内102
・拝観時間 9時〜17時 宝物殿9時30分〜16時30分
・拝観料金・大人 600円
・高校生 300円
・中学生 300円
・小学生 200円 (宝物殿の拝観を含む)
・アクセス ・JR学研都市線「京田辺」駅下車 徒歩15分 ・近鉄京都線「新田辺」駅下車 徒歩20分
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