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京都府城陽市の城・山城・寺田城

山城寺田城跡

*山城寺田城(やましろてらだじょう)寺田城は、寺田環濠集落(てらだかんごうしゅうらく)とも言われて、寺田駅の東側にある三縁寺(さんえんじ)辺りが寺田の中心地域になる。高岳寺(こうがくじ)辺りが南の端とされ堀が集落全体を囲繞(いじょう)「まわりを取り囲むこと」している。

三縁寺は、明応6年に創建したと伝えられ、大門は安土桃山時代に建てられた京都・建仁寺護国院の表門が山門として移築されている。環濠集落の分類で言えば「居館独立型」で近鉄京都線の西側にある「乾域」が城あるいは在地豪族居館であったと考えられている。いずれにしても遺構はすべて住宅地に埋もれてしまった状態です。

寺田城は、建築年代や築城者などは定かでないが、文明14年に畠山義就(はたけやまよしなり)方の伊賀国人衆十一氏が在城していたが、畠山政長(はたけやまなさなが)方へ寝返った枇杷庄城の斎藤彦次郎に攻められ落城して、城兵は水主城に落ち伸びました。文明14年には細川晴元(ほそかわはるもと)細川氏綱(ほそかわうじつな)方討伐のため三好(範長)長慶(みよしながよし)に寺田城を攻めさせている。

室町時代の細川氏は、京兆家を中心とした同族連合体の集団を形成することで、一族内訌(ナイコウ)「内部の騒ぎ」の危機を減らし、これによって有力守護の勢力を削ごうとする将軍の干渉を排除して管領・有力守護の地位を保ち続けた。

*三好長慶(みよしながよし)阿波出身の戦国武将。1522〜1564・室町幕府を支えた有力大名の細川氏の重臣として畿内で力をたくわえて、やがて主君の細川氏、さらに室町将軍をもしのぐ権力者にのぼりつめます。

・環濠集落 周囲に濠を巡らせた集落のことです

・三縁寺 近鉄寺田駅から徒歩約5分ぐらいのところにある浄土宗のお寺です

・高岳寺 京都府城陽市寺田にある浄土宗のお寺です

*畠山政長(はたけやままさなが)(1442年〜1493年) 室町中期の武将。幕府の管領(かんれい)畠山持国の養子となったが、持国に実子の畠山義就(はたけやまよしなり)が生まれたので追放された。後に家督を巡って義就と抗争を続け、応仁の乱の一因を作った

*畠山義就(はたけやまよしなり)室町時代から戦国時代前期の武将、守護大名。父の畠山持国(はたけやまもちくに)が享徳4年(1455)に没するとその家督を継ぐために従弟の畠山政長(はたけやままさなが)と家督問題で争った

基本情報

・所在地 京都府城陽市寺田乾出北

・遺構 なし ・形式 平城 ・築城者 不明 ・築城年代 不明

・アクセス 近鉄京都線寺田駅から徒歩約10分

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