山城水主城跡
*山城水主城(やましろみずしじょう)水主城は「御厨子」(みずし)とも表記されている、木津川右岸に位置して、木津川の渡河点として重要な場所として城が築かれています。
応仁・文明の乱の動乱の時も激しい争奪戦が行われていましたが、現在は、水主地区内にある法然寺から東側の民家敷地一帯が城跡とされています。宅地化により現在では城の遺構は何も残っていませんが、水主城は、室町時代に水主氏によって築かれています。水主氏は、文献によると明応年間に幕府奉公衆であったことがわかっています。
*奉公衆:室町幕府が将軍直属の軍隊として組織した武士で、一番衆から五番衆に編成された。奉公衆に編成されたのは、足利氏一門や譜代の被官(上級官庁に直属する下級官庁のこと)、守護の庶家(宗家ないし本家より別れた一族)や有力国人など、多彩でした。各地で守護を牽制するとともに、御料所(幕府直轄領)の管理などを行い幕府権力を支えていた
文明15年に畠山政長(はたけやままさなが)方であった水主城が畠山義就(はたけやまよしなり)方の斎藤彦次郎によって攻め落とされて、斎藤彦次郎は城に合戦に備えて兵糧米を調達し天王畑城に出陣します。文明16年には、畠山長政は城の奪還のため攻撃するが失敗します。文明17年に斎藤氏は、長政方に寝返って、宇治に布陣して義就方の寺田城・外野城を攻め、両城の兵士が水主城に逃れています。当時は水主城は、義就方の伊賀衆が入っていました。
基本情報
・所在地 京都府城陽市水主北垣内
・城 城とは、主に近代以前の軍事的な防衛施設です。敵を防ぐために土や石で堅固に築かれた戦闘拠点であり、食糧や武器や資金の貯蓄場所として使われた。多くの場合、為政者(政治を執り行う人物)や指揮官の住居であり政治や情報の拠点でもありました。
・平城 平城は、平地だけを利用して築かれた城です。平地に城を築くことにより、領主は領地に多くの兵力を収容できるようになります。平城は、戦国時代の終わりから江戸時代にかけて多く作られました。代表的な平城には、二条城(京都)・松本城(長野)・広島城(広島県)の日本三大平城があります。
・アクセス 近鉄京都線富野荘駅から木津川方面に徒歩約30分
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