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京都府城陽市の城・山城・外野城

山城外野城跡

*山城外野城(やましろそとやじょう)近鉄富野荘駅東の府道251号線沿いにある「西富野公会堂」の周辺に築かれていた。現在は、住宅地となっており城跡と思われる一帯に遺構らしきものを含めて何もない。外野城は、築城年代や築城者は不明ですが、文明17年に畠山義就(はたけやまよしなり)方の伊賀国人衆が守っていたが畠山政長(はたけやままさなが)方に寝返った枇杷庄城の斎藤彦次郎(さいとうひこじろう)の攻撃を受けて落城した。外野城へ筒井氏が入り、水主城の義就方の伊賀国人衆を攻撃している。

文明17年(1485)山城南部で国人(こくじん)・地侍(じざむらい)らが中心となって起こした一揆のことを山城国一揆といいました。当時抗争を続ける畠山政長と義就の両軍を撤退させて以後8年間守護による支配を排除し自治を行いました。掟によって、地域の警備や道路の管理、年貢米の徴収などを自主的に行なった住民ですが、しばらく経つとほころびが生じてしまい。明応2(1493)年夏に守護職による統治を受け入れ山城国一揆は崩壊しました。

*畠山政長(はたけやままさなが)(1442年〜1493年) 室町中期の武将。幕府の管領(かんれい)畠山持国の養子となったが、持国に実子の畠山義就(はたけやまよしなり)が生まれたので追放された。後に家督を巡って義就と抗争を続け、応仁の乱の一因を作った

*畠山義就(はたけやまよしなり)室町時代から戦国時代前期の武将、守護大名。父の畠山持国(はたけやまもちくに)が享徳4年(1455)に没するとその家督を継ぐために従弟の畠山政長(はたけやままさなが)と家督問題で争った

基本情報

・所在地 京都府城陽市富野乾垣内

・遺構 なし ・形式 平城 ・建城者 不明 ・建城年代 不明

・アクセス 近鉄京都線富野荘から徒歩約15分

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