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京都府城陽市の城・山城・枇杷庄城

山城枇杷庄城跡

*山城枇杷庄城(やましろびわのしょうじょう)城陽市木津川右岸にある大堀地区の天満宮社から西側の住宅地一帯に築かれていました。地区内には、城の遺構らしきものは何も残っておらず、資料によれば、「フルヤシキ」・「ミカンヤシキ」と呼ばれていた。枇杷庄城の築城年代や築城者は不明ですが、文明17年に畠山政長(はたけやままさなが)に与した斎藤彦次郎(さいとうひこじろう)が入り、その後寺田城・外野城に入った。長政方の軍勢と共に水主城を攻めている。元亀4年には、織田信長に敗れた足利義昭が一時的に入っていることもある。

*畠山政長(はたけやままさなが)(1442年〜1493年) 室町中期の武将。幕府の管領(かんれい)畠山持国の養子となったが、持国に実子の畠山義就(はたけやまよしなり)が生まれたので追放された。後に家督を巡って義就と抗争を続け、応仁の乱の一因を作った

*畠山義就(はたけやまよしなり)室町時代から戦国時代前期の武将、守護大名。父の畠山持国(はたけやまもちくに)が享徳4年(1455)に没するとその家督を継ぐために従弟の畠山政長(はたけやままさなが)と家督問題で争った

基本情報

・所在地 京都府城陽市富野大堀

・遺構 なし ・形式 平城 ・建城者 不明 ・築城年代 不明

・アクセス 近鉄京都線富野荘駅から徒歩約15分

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