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京都府城陽市*「道標・石碑」

城陽市域に残された道標や石碑です。健立場所や地名にスポットをあてます

*指月の道標(しげつのどうひょう)

・城陽市平川指月にあり、市内で最も古い道標です。高さ69cmの道しるべ「指月の碑」江戸時代初期の物と言われており左 うじみちと刻まれています。

*丁子口の道標(ちょうしぐちのどうひょう

・城陽市寺田丁子口の交差点にあり、正面には、八幡近道・木津川渡船。右側は、石清水八幡宮。裏面は、昭和3年秋禀京都三宅安兵衛遺志建之と書いてあります。

・(三宅 安兵衛とは 幕末・明治時代の商人、晩年京都のために資産を使えと言い残し京都府内におよそ400基の史跡・名所の案内碑を健立した。)

*長池駅の道標(ながいけえきのどうひょう)

*長池駅の道標

京都府城陽市長池にあり、京都へ5里、奈良へ4里半 城陽市が 五里五里と言われるようになりました。

*伊能忠敬の説明看板と長池駅の道標

・京都と奈良を結ぶ大和街道の中間点に栄えた宿場町、長池宿に日本地図を作成するため測量家の伊能忠敬が江戸時代の文化11年に宿泊している。「伊能忠敬(いのうただたか)とは、江戸時代の商人・天文学者・地理学者・測量家。寛政12〜文化13年の17年をかけて日本全国を測量した」昭和3年秋禀京都三宅安兵衛遺志建立

*梨間の宿碑(なしまのやどひ)

・深廣寺や賀茂神社と山城青谷駅との間、北方の道が合流するところに梨間の宿の碑があり、昔宿駅であった事を偲ばせる道標です。

*松井蔵人の碑(まついくろうどのひ)

・市辺北山の梅林には元弘役 松井蔵人館旧跡と記された道標があります。松井蔵人は鎌倉時代の御家人であり、軍記物語の太平記には、元弘の乱で笠置を脱出した後醍醐天皇を発見した人物です。

・太平記(たいへいき)1318年、後醍醐天皇の即位から鎌倉幕府の滅亡、そして建武の新政の失敗と南北朝分裂、後醍醐天皇の崩御。それからの足利幕府内部の混乱、御村上天皇、足利義満の時代までの約50年の動乱のさまを描いた軍記物

・元弘の乱(げんこうのらん)鎌倉時代の末期に鎌倉幕府打倒を掲げる後醍醐天皇の勢力と、幕府と北条高時を当主とする北条得宗家の勢力の間で行われた全国的内乱

*高倉宮冑之碑(たかくらのみやかぶとのひ)

以仁王(もちひとおう)は、後白河天皇の第3皇子で三条高倉に住んでいたため「高倉宮」と呼ばれた。平家により皇位の望みが絶たれ挙兵したが敗北、南都に逃れる途中打ち取られた。

*建武役氏之館旧址(けんむのえきじょうしのやかたきゅうし)

・建武年間(1334〜1346)の城氏の居館があった場所とされる、(中城とも呼ばれる)現在では石碑か立っているだけです。三宅碑こと「三宅安兵衛遺志碑」の1つです。

*市辺押盤皇子(いちのへのおしはのみこ)

市辺押盤皇子という人物は、履中天皇(りちゅうてんのう)の皇子であつたが暗殺された。この地に市辺押盤皇が居住していたことから市辺と言う地名がついたとされる説があるが詳細は不明である。

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